昭和46年03月23日  春季霊祭



  おかげを蒙りまして、春の御霊祭り、生神のお祭りが、只今、滞りなく、奉仕させて頂きました。お祭りを奉仕させて頂いてみれば、まあ、言わばこれだけの事でありますけれども、その、お祭りの内容が、どのような大きな波紋を、私共の、人間世界の上にも、または御霊様の世界にも、広がっていくか分からないほどしのものを感じ、または、それを信じます時にです。本当に、とりわけこの御霊のお祭りが、いかに大事な事であるかという事を、度々のお祭りに痛感するのでございます。
  私は例によって、昨夜もほとんど休みませんでした。見に行ったらご霊前に出らせて頂きまして、今日のお祭りを受けられる全ての御霊様達の上に、お粗末がないように御無礼がないように、おかげを頂かして頂く訳でございますが、教祖様は「生きても、死にても、天と地はわが住みかと思えよ」と教えておられます。天地より他に行く所がない。しかも、その天地をご司祭になりますのが、天地金乃神様。
  そこで私共とても御霊様とてもです。これは仏教的に言えば地獄も極楽も、または宗教的に言うならば絵の国もどこの国も、天国もいわば高天原もそれは、やはり天地より他に行く所はない。天地の中にあるのであります。その天地の中に私共が生かされ、天地の中に、私共がこれからも御霊の道に入らせて頂かなければならない、これは言っておる以上、必ず、そういう事になるのでございますからね。
  御霊様とても、やはり、天地より他に行く所はおありにならない。しかも天地の親神様の御神愛の中。神様のおかげを下さる、お恵みの中にあるのでございますけれども、人間世界におきましても、幸、不幸がありますように、御霊様の世界に於いても、やはり、同じ事が言える。私は、先日、10日前です。前に、この様な話を聞かせて頂いた。しかもこれは、品のある方から聞かれた、または品のある方がそれを勉強して、お話になるのですから、私はそれを確信致します。
  今日田から麻生さんという方が、毎日ここ一月ちょっとになりますが、毎朝毎朝じゃないもう日に二回ずつぐらいお参りになります。この方はねもう長年の間、いわゆる神があるかないか。御霊の世界魂の世界があるやいなや。またはどのような状態になっておるものかという事をですね、もうあらゆる角度から検討された。霊学神学、最近は催眠学まで、もう天狗道の道までずうっと研究しておられる。
  もうそれこそその方の書斎にまいりますと、そういう本で埋まっておる。家は酒屋の旦那さんですから、仕事はないですけどね。もうそういうことを只もうとにかく興味を持たれ出してから勉強され始めた。ところが集まって来るわ、集まって来るわ、本当に先生この、あれが読みたいこれが必要だと、こういう事はと思うとですね、そういう本がもう自然と集まって来ると言われる。大した事ですねと。そして、それを分れば分るほど、いや、神の実在を信じん訳にはまいりません。
 またはある魂の世界をです、もうピンからキリまでの魂の世界。そこの様相というものを、まあ学問の上で分らして頂けば頂くほどです。そういう御霊達の働き、または神様の働きを受けて、この世でおかげを受けておるという人をです。もうそれは十年間探し求めたと言う。そこに言わば、透視眼と言うんですかね、色んな事が分られる人がおると言えば、そこを尋ねる。仙人に逢って、仙人にも逢われる。
 去年などは自分の息子さん方をですね、中学生と小学生の息子さんを、その仙人の所に一月間預けられたち。そしてそのまあそういう、言うならば魂の世界に、何とはなしにつながりを持つところで、修行させたい修行させたいというところから、もうそれこそもう、なんだそうですね。もう日にこのくらいな玄米食のおにぎりをね、もう2つか3つしか食べん。後はもうそれこそ草の根やら葉やら、もう帰って来た時には、それこそやせ細って帰って来たってから言ってましたですね。
 そういう厳しい、例えば、思いを持って、それを、追求して行かれる。そして、そこに、超霊能者と言ったような人があると聞くと、それこそ、どこまででも行ってでも、訪ねられた。ところがなるほど、世の中には不思議な力を持った人がありましてね。色んな事を、いわゆる、ぽくぽくさんと言われる。当てたりしてる人があるけれども、その人達自身が一つも幸せではないと言う。
  ある有名な、これはもう、世界的に有名な霊媒の、話を聞いて、その霊媒が行われると言うので、その場に行かれた。そりゃね、もう一つの、懐胎と言うですかね、その霊媒を通してですね、人間のこの目でね、いわゆる、あの世の人間が見える。それがやっぱ、技術がまずいと顔だけしか写らじゃったり、手だけしか出らんとこもある。 それをね目の当たりにそういうものを見たりしてですね。
 そういうほんなら霊媒的な、特別な事情、技術と言うか技能を持った人達がですね、もう実にくだらん生活をしておる。あそこの会場に来たばってんあそこは、この頃お礼が少なかったと言う。こんだもう言うたっちゃ行かん。もうそれこそですね、何々博士何々学者さんと言った様な方達が、そういう会を持って興味を持っておられして、会を開かれた。ところが時間が来ても時間が来ても来ない。
 ところが向うへ行ったところが、その丹前でん着てから、もう俺はお前とこに行かんち言うた。この頃お礼が少なかったと。それはとにかく、折角あれだけの人が集まってしておるから、とにかくお礼ははずむから来てくれと言うたらようやく来た。といったようなものに実際直面してですね、そういう神の事実神様の世界、神の実在とか魂の世界のね、これを分ったり見ただけでは、何にもならんという事が分かって来た。
  だから世の中にはねそういう、例えば特別な頭脳を持った人があるにしてもです。それによって幸せになっておるという人達を見たい、訪ねたいというのが、麻生さんの念願です。そしてまあ私に逢われる事になり、お話を聞かれる事なり。そして事実言わば私が助かっていきつつある姿を、日に2回ずつも来てから、御覧になってです、しかも私の言う事がです、ぽくぽくさんじゃなかばってんね。とにかくまあ親先生が言われる通りになっていくがことがぽくぽくある。そういう事じゃない。
 とにかくお取次ぎを頂いてお願いをしていけばです、それは、どういう問題であっても、押しやり蹴やりで行くという事をです、例えば、ぜんざい炊き込んでおられるのは、もう本当に、脇から見よっても、気の毒な位な、ある問題に取り組んでおられます。 ところがもう、一日も終ってしもうてから、本当に思えば思うほど、ようもようも、今日もここん所が通り抜けられたもんだと言うようなです、間違いのない働きの中には、それこそ、神恩報謝の生活がだんだん出来ていかれた。
 今日も朝の御祈念に参って見えて、今日は実はもう本当にお参りがしたいけれども、特別な用で今日は大分の方まで行っておられる。そら残念ですなあと言ったら、先生それでも私はおかげ頂くと思うとこう言われる。それがどういう事かと言うとですね、その方から私はいわゆる10日前にお話を聞いたんです。それはあるお医者さんで、大変有名なお医者さんで、やはりその霊学を研究して6年間研究をされた。もうあらゆる学問を言うならば駆使してから研究される。
 そしてもう6年目にいよいよもうこれは、匙を投げようかという日にですお夢を頂かれた。その夢が亀の夢です。その亀の夢からです、足が4本亀甲が八角そういうところからです、数学的に(?)ヒントを得られたち。その方が今日例えば霊媒を通してであるけれども御霊の世界を見たり、亡くなった者の姿を見たり声を聞いたり、天井から声が聞こえて来るです霊媒を通して。そういう不思議な事に興味を持ち始められて、何がしかの言わば、それこそ権威のある本を書かれた。
 その本の中に、先生、こういう事が書いてあると言う。硫黄島という所がございますね。いわゆる、大東亜戦争で、日本の兵隊さんが玉砕した所です。そこにはね、団体で幽霊が出ると言うのです。それを実証付けて、いろいろお話しておられるが、アメリカの兵隊はね、その、硫黄島と言うとね、行き手がなかごとなって来た。給料を倍出されたそうですね、硫黄島だけは。けれども島に行き手がなくなった。そして妙な病気を患うたりですねそれはもう実際行って来た者がですね。
 そりゃ日本人も含めてとにかく団体で出るそうですね幽霊が。戦車なんかで行きよりますとですね。もうそれこそまあ夕方位、こらちょっと出だんせんじゃろうかね、というごたるやっぱ幽霊もですね、やっぱ一つの雰囲気が必要なんですね。いやそうですよお芝居なんかであのひゅどろどろどろと(笑い)ああいう一つのリズムに乗ってやってるんです。しかもこう明いうちにはなかなか現われない。夕方雨がしとしと降り始めたと言う様な時柳の下のあたりは、尚更まあよかつでしょうね。(笑い)
 それがね戦車がね。ぴたっとそこのそういう一つの雰囲気が揃いますとね、止まって動かなくなるそうですよ。そしてねその全部の戦車に乗っておる、全部が見るほどしにですね日本の兵隊が一生懸命に何かをやっておる。大砲の弾を磨いとる奴もおりゃ、軍艦をどうかしておるこうこしておるともおると言った様な、一生懸命にもうそれを見た途端にですね、いろんな病気になる。やっぱ幽霊を見るならそりゃもうそりゃ気色が悪かでしょうね。しかも団体で出て来る。
 けれどもね私はそのほう面白かねとか、そういう事でなくてそれを聞かせて頂きながらね。はあ本当にそういう御霊達が、沢山世の中にあったという事。これは硫黄島だけじゃない沖縄だけじゃない。長崎とか広島なんかで原爆でそれこそ無残な死をなさった。この頃テレビを見せて頂いておったら、ベトナム戦争の余波のようにして、普通の住民の死体が、川いっぱいになって死体が流れておると言う様な状態を、目の当たりに眺めた時の事をですね、私は、一瞬思わせて頂いた。
  これはこういう世界中の氏子の御霊という者の、難儀救われなければならない事があったんだと。私共は日夜どうぞ世界総氏子の身の上安全、世界真の平和を願っておるけれども、私はまあどうした抜けた事であったろうかと思うた。本当に世界総氏子の御霊達がです、助かる手立てはないにしてもです、なんとかどうとかする手立てはないものかと感じるようになってそれからもう日夜の御祈念の場合、その事を一生懸命願ようになった。その話を私が麻生さんにしたものですか。
 昨日一昨日見えてからですもんその大分に行って、今日は御霊様の大変残念だけどお参りができない。今朝から朝の御祈念に参って見えても、本当に残念だけれどもと言うて、まぁあるで意味自身満々でおられる訳です。私は参らんでもおかげ頂く。なしかと言うとですね、私が親先生にヒントを与えた。親先生が世界総氏子の御霊を祈られるほどしの事になれば、絶対御霊達が助かるとか助からないは別として喜ぶ事であろう。
 その喜びは、麻生家にいたり、私の上に来るだろうと言われる訳です。ほんなこつそうかも知れまっせんばいと私は言いました。それはですね、もう私はもう先日も佐田さんの所の息子さんがお医者さんです。ある問題でお参りになっておる時に、ちょうどまた、二度目のお参りになって見えた。そしてその勉強してありますもんですからね、医学の事は、もう私どんが横で聞きよったっちゃ分からんごたる言葉を使うて話されるが、今度は霊学、神学の事でもですね、いわゆる神様の実在とか御霊様の世界をです。
 しかも金光大神御取次ぎの道を、まああの方なりに分られたことをですね。実は私は今、毎日言わばまだ一月しか参らない私がです「金光教とは」という論文を書きよる。これは私なりのものです。しかも金光大神のその道の素晴らしい事はですね、とにかく「神も助かり氏子も立ち行く」という道「あいよかけよ」での道。これはもうあらゆる宗教を勉強したけれども、こういう事を言うておる宗教はまたと他にはない。
 と言うて御取次ぎの道の素晴らしさをですね、もうそれこそ私共がうわぁあげな説明が、しようがあるじゃろうかいうほどしに、テープに取っておきたいほどしの説明をなさいました時にね本当に勉強しておかんといけんもんだなとと思いました。そのようなね例えばその御霊の世界とか、神の実在を実証する事が、ただし出来てもです、それでは人間は幸せにはならないんだという事が分かってきた。
 そこで本当に世の中には、徳者という人があるげな、神徳家という人があるげなが。ただ霊能者もあちらこちら霊能者だけでは、その霊能者自身に逢ってみて、くだらん生活をしておったり、ただぽくぽく当てるというだけのような事ではね。人間が助からない事の事実を突き止められてる。毎日今合楽通いがもうとにかく有り難うして有り難うしてという事になってきた。これはね天地金乃神様という神様はです。
 どうぞ信心しておかげを受けてくれよと言われるけれどもです、信心が無かったらどんなに例えば全知全能だと言うてもです、それを自ら御助けになられるという事ができない神様なのです。そこであの教祖の神様に天地の親神様が神頼みになられる。いわゆる立教神伝なのであります。死んだと思うて欲をはなして、世の中になんぼう難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやってくれんかと。
 そこから神も助かり氏子も立ち行くと。親の事は子が頼み、子の事は親が頼み、あいよかけよで立ち行く道が、しかも末々繁盛の道が開けてくる道を、なんとか打ち立ててくれないか、取り次ぎ助けてやってくれんかという神頼み。神様がご自分で、はぁあっちに難儀な人がおるけん、助けてやろうと言うて、助けられなさる事ができない事が分るでしょうが。いわゆる麻生さんが言われるのもです。
 ここに親先生という人があって、その親先生が天地の親神様、金光大神御取り次ぎを願うて下さって、そこからね、おかげの頂けて行く道というものがです、素晴らしいという事が分かってきた。親先生のお話を日々頂いておると、もうこれは麻生さんの言われる事。神徳と超哲学と何とかと言うてたですね、その3つを唱えておられる方だとこう言われる。お話を頂いておるともうまさしくあれは超哲学だ。
 同時に例えば親先生任せになって皆さんが、おかげを受けておられる姿、また自分自身も事実御取り次ぎを頂いて、親先生任せになっていけばこのようなおかげが、はっきりしかも日々頂けれる事実を、日々体験さして頂いてです言うならば、私が言うておる事を天地が聞いておられる。しかもその天地が親先生の顔を立てておられる。親先生のバックに、いつも天地の親神様があるんだと分られるようになるんです。
 昨日ね、私、御神前に出らせて頂きまして。本当に今までの御霊様のお祭りとは内容が違った。言わば、世界総氏子の御霊、神様の目から御覧になる氏子がです、言わば、それこそ、もう、本当に大変な苦しみに苦しみ抜きあえいでおる姿を御覧になって、どうとかならんものか思われた、いや、おられたに違いはない。それを私は感じ、感じ通して頂いた。そこで私は、それを願う事になった。
 本当に神様が喜んで下さると思う。昨日は私はいつも昨夜、(?)ですかとにかく大変にやっぱり、ある意味で骨の折れること。それこそもう言うならば生きた神様、生きた御霊様。御霊様が生きておられる。そういう御霊様と対決なんですから。そらもう本当にもうお腹どんが減っとるならこちらが負くるごたる感じが致します。それで私はもう必ず食事を夜食をいっぱいしてから、御神前に出るんです。
 こっちがちょっと遅くなったもんですからこの頃は私の夜食の事をする事を皆さんが知ってですね、何時も7、8人ぐらいはちょうど田主丸の共励から帰ってくる。はあ今日はもう夜食が始まりよるとにみんなが起きてまってる。言わばこの頃その夜食があんまり沢山集まって来るもんですから、私一人よう頂かん訳です昔は頂きよったですね随分。けどもこのこの頃そげん頂かんごつなった。
 それからみんなが手伝うてくれる。所が昨日は疲れて休んでしまっている。高橋さんと文男先生としばらく三人おられる。ほれで沢山色々食堂に、私は夜食がもういろんなご馳走がいっぱい集まっておった。そんならいっちょ今から頂こうかち言うちから、あそこで頂き始めたらですねお茶を水をね、または言うならこのお供をね、霊前に供えて言わば世界総氏子のね、言わば難儀な御霊に対するお供えと頂いた。
 それから私は改めて又、文男先生と高橋さんに手伝うて貰うてお三方5台出来ました。夕べそれにはもうそれこそ氷の様に冷たいお水ね、もう喉が渇いて渇いてとにかく一滴の水も与えられないという程しの御霊には、生ぬるか水でよりかそれこそ氷の水がよかろうと思うて氷水を、私は大きなあのジャンボ茶碗というのがありますね。その新しいのを二つお供え頂いとりましたからそれに並々と水を注がせて頂いた。
  繁雄さんに言うてもうとにかく、お番茶でも良いからこういっぱい、とにかくこれいっぱい沸かして下さいと言うて、お茶を沸かしてもろうた。それを御霊様にお供えさして頂いて、夕べはその御霊のそのことにかかりました。そしたら御神訓に頂きます事がね、もうそれこそ、もうどれだけあるか分からんぐらいに沢山な、あのひろ葉というのがありますよね、あの昔お弁当包んでおった。
 一つ葉とも言う。あのひろ葉の上にもうあらゆる、例えば牡丹餅もうそのいろんな食べ物がですね、もううず高く積まれておるところを頂いた。はあここにお供えしたのは、今日はお三宝五台なんだけれども、この真心というものは、もう神様は自由自在に言うならば世界中の御霊様達に、お茶の一杯ずつも水の一杯もおはぎの一つずつも分け与えられるほどしの事になってくるという働き。
  私はそれを頂いてからね、これはどう事であろうかと、この事だけじゃなかろうとこう思うてお待ち頂いとりましたら、先ほどから私が申します立教神伝のところを頂くのですよ。なるほど神様があの氏子がもう水を求めておる、あの氏子が甘い物を欲しいと言うておる。ここは助けてやりたいけれども、神様御自らそこにお水を与え、またはお茶を与えなさる事はできないシステムが神様の世界にもあると言う事。
 助けたい一念ではあるけれども、そこに真心の人があり。言うならば金光大神がおわしまし、その金光大神の御取り次ぎの働きを受けて、私があってそこに気付かせて頂いて、私が、ここに牡丹餅をまたはお水をお茶をと言う時にですね、初めて神様の願いが成就する事にになるのです。皆さんそのへんのことをようく分かってほしい。今日もある方が親子で参って見えて言われるんです。今日はお参りしておいでとお姉ちゃんの御霊が、亡くなっておられますから。
 御霊さんに玉櫛上げんなんけん出てお出でと言うたら、お父さんが言うことがもう僕んところは、あのう仏教でやらせて頂いておりますと、それでもう家内が、昨日一昨日、その娘の御霊が、甘いものが好きじゃったけんと言うてから、彼岸のお中日ですね、おはぎどん作ってから、上げよりましたけんで家の家内がもう、その先祖の御霊は全然、もうノータッチ。まぁお婆ちゃんが持って行くって言うけども、そんなつは迷惑千万じゃから、持って行ったらならんち言う。
 それでも家のお婆ちゃんは信心深くてですねやっぱ月に何回か、お寺の坊さんに来て頂いてお経を上げて頂いておったから、もうおかげは日々もう十何年もお参りをさせて、もう二十年、参って来ておかげは頂いておるけれども、御霊様の方には、私は関係はなかち言うごとある顔しとる。もう夕べからそれこそ生の御霊様に接して、もうそれこそどんこんたぎるごたる、いやそれが今朝の御理解になっておった。
 そういうまだ、これは冷めておらんもんですから、少し激しかったけれども、私は本当に、十何年、二十年近くの信心をさして頂いて、まぁだ、そのくらいの事も分っておらんか、例えば、ほんなら、あんたんとこの家内が娘が来ちゃったからと言うて、お中日におはぎをあげた。なるほどそれをもし受け取ったかもしれないがて、御霊が喜んだかもしれないけれどもです。ほんなら、あんたげんお母さん、家内が死んだら、この御霊様は誰が世話をするのと私は言うた。
  その日もどげん出来ん信心させて頂いたら、身を大事にしろ先祖を大事にしろ例えばね、私共が亡くなったら孫が子がですこれを必ず、丁重に奉ってくれるというでなからなければならん。あんたげの家内がほんなら娘が可愛ゆうして応えんけん、牡丹餅の一つも作ってお供えしとるばってん、そんならさぁその家内が死んだらどうするのと。この娘は誰がみるかと私は。はあほんなこつですねとこう言う訳。
 そして例えばね私はもうこげなこつは、大体言わん事に決めとるばってん、今日は一つ言わせて頂こうと言うて話したことですけれどもね。例えば月に3回お経を読んでもらって、助かる筈は絶対になかよち。何故って言うてからあなた、その坊さんが人間の難儀、言うなら病気一つ治しきらん坊さんがお経を上げた、現在の仏教で御霊様が助かる筈はなかじゃないかと私は。
  皆さんこの世はもう子供達は言わんとですからね大体。けどその人に言うたつを話よった。世界を例えばその三部経様が有難いのなんのち言うても、上げておるその坊さん自身が、人間どんを助けきらんものをまだ御霊様の世界の、まだ難しかもんばどうして助けきるかと私は言うた。だからね今私は合楽をおいてはないと思うて、なら折角十何年も信心させて頂いておるであるけん、そこんにきの見合いのところはいっちょ分かって欲しい、分かってもらわにゃ御霊様が悲しい。
 私自身も悲しい。と言うてほんなら今日お参りさして頂きましょうと言うて、まあ帰られましたがです。後言うた後に、私も思うた。とにかくその方が言われるのに、腹が立って、一月に3回もお経を上げてもろうたり、坊さんに来てもうたりしておるけれども、まぁそら親先生、あなたが言われる通り、やっぱ気休めですち。だから御霊さんだってやっぱ気休めだとこう言うからねそれを私はまあ。
 まあ昨日から昨夜からのその実感を、話して頂いたけれども本当にそれは目に見えない世界の事ではあるし、ただ私だけが実感しておる事ではあるし果たしてほんなら、今日参拝をして来るたくさんの信者氏子もです。さぁ親が辛い物が好きだったから、甘い物が好きだったからと言うて、成程お供をさせて頂いておろうけれども、果たして私が感じておるほどしにです感じておるだろうか、やはり気休めぐらいで参って来ておるんのではなかろうかと、私は思うた。
 これはこの方はむしろ純真に気休めとか、自分はそのもう仏教でしとるからと、平気で私の前で、それを言われたがこの人はもう、無邪気なから純真なのであって、私は他の言うなら、ここに熱心に信心をしておる、ほなこれをいろいろ御苦労をなさった、皆さん自身もです、私はここんところが、いわゆる、まだあやふやじゃなかろうかというようなものを感じさして頂いた。
  これはいよいよ信心させて頂かなければいけないなと思わせて頂く。同時にです私は、そんなら口はばかったことを申しますけれども、世界中の氏子の事が、それも私はつい最近それまでは、皆さんもご承知の様に痒いかなら痒いか、痛いなら痛いとその実感をそのままぶちまけて、神様に願わなければと言うておった。例えば日本国中のことを願うと言うても、天皇陛下の誕生日も忘れるごたるこっで、日本中のことを願うたっちゃ神様は聞きゃしなさらん。
 本当に日本国中の事を思えれるなら、本当にその長であるところの天皇陛下の誕生日ぐらいは忘れられない。この辺のね物でなからにゃならんと言うのが私の持論でした。それを段々おかげを頂いて、去年あたりからねこの70年代という時代がどのような大変な年かという様な事に気づかせて頂いてもうそれこそ、世界中のそれこそ隅から隅までの、人間氏子の上に立ち行きを願わずには居られなく段々なって来た。
 そして、つい10日ばっかりではあるけれども、世界氏子の、言わば御霊様達の上にまで、思いがかけられ願われるようにならせて頂いたという事は有難い事だとこう私は思う。それでほんなら私が願ったから、世界がどうなる事もなかろう、御霊様がどうなられる事もなかろうけれども。例えば私がほんなら御神眼に頂いたのは、もうそれこそ明るい世界から、沢山もう嬉々として集まってみえれる様な状態の御霊様があるかと思うと、ここが世の国底の国じゃなかろうかと。
 ここのところから、もうどれほどあるか分からないほどのね、小さい線香の様な光りを一人が持って、皆その言わば、この私の奉仕させて頂く、今日のお祭りに合わせて頂こうとして、集まってみえれる御霊達の姿を見せて頂く時です。ほんならこういう難儀な人達に、それこそ迷うて出なければならないほどしの人達にです。与えられる力と言うものは、ないにしてもです。
 私はそういう願いが持てれるという事がね私は有難いんだと。それが信心だと思うのです。その事を私神様に思わせて頂いておりましたらね、その例えば沢山な難儀な御霊様達にです。もうそれこそ大変な苦しみをしておる、その御霊様達にですこれを難儀と思わせず、または苦労と思わせず。私と縁が出来た限りそれを修行として受けて下さいという事だけは分からせられ、また分からせられる可能性があるという事であります。
 今までね地獄に例えば、底であえぎ苦しんでおる。はあ本当にこげな苦しい思いをせなきゃならんと言うておった御霊がです。私を得た私という取次ぎ者を得てです、天地の道理が分かり、天地の御恩徳が分からんにしてもです。今のその苦しみが苦しみでは、苦しみと頂いては助からん。それを修行と思わせて頂いて、おかげを頂いて行く道をこれから開いて行って下さいと言う様な事なら分かる。
 これは人間世界の上に於いても同じことが言えると思う。難儀じゃ助からん苦労じゃいけん。それがそのまま神様の言わば愛の現われ神愛の現われ。こういう難儀な事だけれども、その難儀な事その事を難儀とせずに、それを修行として受けれる道をね、教えてあげるところに、これから助かって行かれる手立てをです、作ってあげるという意味の事を頂いた。私は先日からそこの控えで、日田の高芝さんと綾部さんと、四時の御祈念終わってからでしたから、あちらでお茶を頂きよった。
 高芝さんは知り合いのところへ、ちょっと行ってくると言って行かれた、行かれた後に私は綾部さんと二人でお茶を頂きながら、とにかく綾部さんこの世には人間な魂を清めに来るとこですばいち私は。この世に生を受けてです、その事に気付かなかったらね、こりゃまたまたです。これはお釈迦様の説を借りるならですね。
 またあちらの世界で苦しまなければならないという事は、どういう事かと言うと、それこそあの輪廻説という、お釈迦様が説いておられる一つの哲学ですよ。そのお書物の中にあるように、人間がこの世に出て来るというだけでも、何億年とかかってこの世に出て来ておるんだという事。その間の苦しみというものは、そりゃ一つの表現でしょうけれども。牛に生まれ変わって来たり、猫に生まれ変わったりしてようやく人間に、ここに生を受けさせて頂いてです。
 私共が魂を清まる事を知らずに、我情我欲で一生を送ったら、またそういう世界に入っていってから、何億年間苦労せんならんですたい。人間はこの世に魂を清めに来てるんだと。それはね、嘘も方便とお釈迦様がおっしゃるから、そういう生まれ変わりてんなんてんち言うことは、例えば嘘かもしれない。けれども、この世に生を受けて来た者に対してです、こういう事になってもよいか、なっちゃいけまいが。
 そのためにはしっかり信心させて頂いて、魂を清めておかなければいけないぞという事を教えられ為のことかも知れないけれども。とにかく私共はまた犬が猫にどん生まれ変わる様な事があっちゃならん。もうこの世にはこの魂をもう磨きに来ておるぞ、清まりに来ておるんだと。しかもそれを一生です願い続け思い続け、あの世でもやはり磨き続け言わば、清め続ける事の道を辿らして頂いておる事になる時です、そういう御霊が私はおかげを頂くんじゃないかと。
 それならばもう、魂の清まるという事を知っているから、もう他に生まれ変わるこういう苦しみはせんでよかもん。と言うて私が話した途端でしたよ、あの光のね光の中にもう中天からね、バーンと部屋いっぱいに広がるほどのおいさみを頂きました。もうそれこそ、もう何回もおいさみを頂いたけれど、ああいうふうに言われてです、もう大変な身が縮むようなおいさみだった。
 そん時先生あなたが今おっしゃるように、私共はこの世に清めに来ておるということを、早く知らなければ悟らなければいけませんなあという事であります。ですからね本当に、そういう心にならせて頂くという事が信心なんだ。私共はこの世にいよいよ清まりに来ておるんだと悟らして頂いて、さまざまな問題さまざまな問題を通して、おかげをいただかなければいけない。
 その魂を清めて行く手立てというか、方法をあらゆる角度から、ここでは教えて頂いておると思うのでございます。昨日も私は朝の御祈念に御神前に出らせて頂きましたら、合楽の「楽」という字ですね、極楽の楽です「楽」という字を頂いたけれども楽という字は、下が木になってる木辺にそれを小さく頂くんですよ。白という字を書いて一本二本こう書いて中にこう木という字を書かなければ、楽という字じゃない。
 けどその木という字を小さく頂くんです。私はこれはどういう事だろうかと思わせて頂きよったら神眼にね、その木が段々段々大きくなっていくところを頂いた。そしてぴちっとその、楽という字が立派な楽という字になるところを頂かして頂いて、ははあ楽とは心が大きくなる事だと悟らせて頂いた。木は心と言うでしょう。ですから楽とは心が大きくなる事なんだ。
 だから言うな、お互いが、おかげだけは大きなおかげをお願いたい。頂きたい。けれども、心がこんなに小さいんじゃ楽になれませんよね。小さい事が心配になってたまらん。小さい事がもう腹に立ってたまらん。そして段々大きなおかげを受けようたって頂けるはずはない。そこで私は昨日皆さんに聞いて頂いた。自分の心を大きくして行く。例えば昨日の御理解を頂いて帰られた、ある方が。
 ところがいつもにない嫁さんがえらぁいプンプンさっしゃる。そらもうほんにどうした、そのまあつれない嫁後じゃろうかとこう思うた。それでもまぁ今朝から頂いてきとりますけんね、そこが心ば大きくする事だと思うた。思いよったばってんあんまり周囲が冷たいから、とうとう主人がたまりかねて、もうあんたそげなごたるならもう里に帰らんのち言うた。私も横からこうこう言いましたとこう言われる。
 惜しかったね、昨日は本当に甲斐さん、そういう時にですその夢の姿の中からね、自分達の本当の姿というものを見せて頂いた。それこそ苦い思いでありましょう。嫁からいじわるされたり、嫁から冷たくあたられたりするならば。けれどもこれこそ今こそ心が大きゅうなっていくための心の胃腸が大きくなっていくための、苦いセンブリでも頂かせて頂いておると思いなさいと、昨日私は言うた。
 今こそ心の大きなおかげを願うておるかです。そんなちっぽけな心ではいけないぞと神様は心に、苦いセンブリを与えて下さった。神様その事ば有り難く思われんでも、苦いセンブリを頂いておるという事は有難いじゃないかと言うたけれど、やはり失敗。けどやはり、こりゃ失敗もしますけれどね、そういう生き方があるんだと。もうその楽になるという事は、昨日私はこれ以上の表現はあるまいというぐらいに、あらゆる角度から心が大きゅうなっていくという事のお話を聞いて頂いたです。
  そういうですそういう生き方なんです、魂を清めるという事は。毎日朝水かぶったっちゃ、心が清まるという事じゃありませんのです。毎日毎日(そらたんぶつ?)を神様を拝みよるという事が魂を清めると言う事にはならんのです。そういうお互い日々信心生活の中にですなかに自分の心を、いよいよ限りなく美しく限りなく豊かに大きくしていこうするような精進こそがです。魂を清めていく事であります。
  時にはちょいと失敗もありますけれども、そこのところをです本気でね、分からして頂きよるとね、神様は次には体験を下さる。おかげを下さる。はあもう本当にそうせんとね、そういう苦い思いをする事が楽しゅうなってくるです。この次には神様はどのようなおかげを用意してござるじゃろうかというような気持ちが湧いてくるんです。修行する事が楽しゅうなってくる。
 そすとそこでは苦労ではない是が修行だと頂ける時に、私共の助かりの糸口が出来るのです。私が今日世界中の氏子の御霊様達に、苦しい事でしょう迷うて出らなければならんような事もありましょう。けれどもねその事自体を一つ、天地に対する所の修行だと思うて、さあ頑張って下さいよ、生神金光大神を唱え続けて下さいよという事ならばね、御霊さんでも、分られるのではなかろうかという風に思うのです。
 今私が力が如何に例えば、あると言うてもです、神様はどのように全知全能と言われてもです、それを今すぐ助けて下さるという訳にはいかんのです。これは私共人間世界においても然りだ。ですから私共がねそこのところをです分からせて頂いて、なるほど神様が助けたいと思われても助けなさる事はできん。それならばこちらが助かる手立てというものを研究しなければならない。
 麻生さんじゃないけれども、初めて例えば合楽の先生に逢わして頂いて、私が長年求め続け探し続けておったのは、この人だったと分かった。はぁだからどんな無理な事でも、、それはもう無理無理言うような事でも言わば、親先生がこう言わっしゃったけと言うて、それを行の上に現わしておられる。そこに助かる手立て、同時にそうして清まっていくという事が一生続けられる事であろう。
 そういう人間は清まり続けていく事が、そのままあの世にも繋がって行くと言う所にです、次の難儀というものに会わなくて、この世では百年か八十年か長生きした所で、けどもあの世と言う所はもうそれこそ限りがない世界。その世界で何億年経たなければまた、この人間の世界に生まれ変わって来れない。そのための苦しみがまあそこをお釈迦様は、何々に生まれ変わって来ると言う様な生まれ変わりの説を持って、ここを分からせようとなさった。ですから本気で信心とは本心の玉を磨くものだと。
 信心とは日々の改まり方が大事かと言う所にです。愈々願目の所を置いて間違いなく、そのところを進めて行くという事が信心なのであります。同時に今日の御霊様達に皆さんが合われまして。御霊様のお喜びもさる事ながら、自分達の御霊様に対する所の願い、祈りと言った様なものが果たして、私が今朝から言うたと言うです。それはただある人が言われたと言う様にです、気休めの様な事で霊祭が仕えられたのであってはね惜しい事であります。ですからもうそれは大とか小じゃない。
 本当に思いを込めさせて頂いての所謂一心の真を捧げての信心であり、御霊様への奉仕でなからなければならんという事であります。今日は大変遅くなりましたからね、もうちょっとご挨拶だけという事でも、やっぱここに立ちゃですね、こう皆さんに言うて分かって貰いとうてたまらんものがあるのです。そこでまあ又少し長くなりましたけれども。今日の御霊様のお祭のご挨拶が遅くなりましたけれども、これをご直会としておかげを頂いて頂きます様にお願いいたします。
   どうぞ。